報われない努力などない 〜憎しみと怒りの対処〜

愛すること・愛されることを知らないということ

前回、自分以外の人から愛を求めることについて書きました。

ほとんど全ての人が愛を欲しているのは

自分の愛し方を知らないからであること。

だから愛し方を子供にも教えられないということ。

ゆえに

多くの人が愛に飢え、苦しんでいる。

苦しみから逃れるために他人からの愛を求めても

他人からの愛では自分を愛で満たすことはできない。

だから

自分へ焦点を向ける必要がある。

要約するとそういう話でした。

激しい怒りや憎しみで相手を責める

今回は続きになります。

幼い頃、家族から虐待を受けた。

この虐待した家族は責められるか?

これは決して許せることではありません。

暴力はどんな理由があっても許されることではない。

私はそう思います。

でも、責められるか?と問われると

責められるとは言えない私がいます。

愛されず、そのうえ虐待を受け、

苦しい思いをし、現在も苦しんでいる方からすると

非常に違和感のある答えだということも承知しています。

それでもやはり責められないのです。

無知であることの罪

なぜか?

本人も虐待を受けていることがほとんどだからです。

そして

虐待の原因は愛されること、愛することを知らないからです。

本当の罪は無知だとキリストは言っています。

知らないことが罪という部分だけ聞くと

しっくりこないかもしれませんが、

このように書くと理解していただけると思います。

知らないから虐待をしても良いのか?

暴力をしても良いのか?

良いわけがありません。

ですが、罪を許す・許さない。

罪を責める・責めないは当事者以外の者が

どうこう言えることではないのです。

だから私は責められない。

許せないということ

では

許せないと思っている私がいけないのか?

責めている私がいけないのか?

そういうことではないのです。

許す・許さない、責める・責めないの選択は自由です。

それは

どちらを選択しても良いのです。

ただ、私がお伝えしたいのは

悲しみ、苦しみ、憎しみ、怒りでこれ以上

自分を苦しめないで欲しいということなのです。

神は人間に自由と能力を与えています。

(これは引き寄せの根本でもあります。)

それにより、

人は自分のしたことの責任は自分で負う 

という決まりがあります。

神様が直接人間に罰を与えることはありません。

(神の怒りに触れた場合は別)

それは

自分のしたことの責任は自分で負う という契約があるから。

それと引き換えに

人間は自由と能力を与えられている。

許せないことは神に委ねる

ですが

これは見方、考え方によってはやはり神は罰を与えるともいえるのです。

どういうことかといいますと

自分のしたことの責任は自分で負う

ということは

誰かに暴力をふるう。

誰かを騙す。

誰かを傷つける。

こういったことをした場合、

今の人生で責任を負うことがなくても

必ず次の人生でその責任を負うことになります。

人間は前世の記憶を保持できませんから

(ごく稀に保持している方もいますが…)

忘れた頃に誰かを傷つけた責任を負うことになります。

だから

その報いは必ず受けます。

神との契約によりなされます。

だから神に委ねてしまうのです。

そして

これ以上、憎しみや怒りを溢れさせないでいただきたい。

それをお伝えしたいのです。

自分を責めない

すると

私がこんな辛い目にあったのは私が悪いことをしたから?

と自分を責めてしまう方もいらっしゃるのですが

その可能性もなくはない。

けれども

生を受けたばかりの存在、

つまり子供、

魂が肉体に着床していない状態の存在が

自分の意思とは関係なく、虐待を受けるような場合は

強いチカラを持って生まれたなど他の理由によることが多いです。

(詳細は不幸が続く人生の意外な理由をお読みください)

激しい怒りや憎しみは感じきる

でも、もし

その試練を乗り越えることを放棄して、

自分の受けた苦しみと同じかそれ以上の苦しみを

他の存在にしてしまうようなことがあれば

それは必ず自分で責任を取ることになります。

ですから

憎み続ける

怒りを持ち続ける

ではなく、

憎しみや怒りを感じ切ったら

あとは神に委ねる。

神との契約に委ねるのです。

必ず自分の責任は自分で負うことになります。

それがいつになるかはわかりませんが、必ずです。

だから

これ以上、自分を苦しめない。

これ以上、自分の魂を汚さない。

もちろん

非常に強い憎しみ、怒りはすぐに消せない。

それで良いのです。

それは仕方のないことなのです。

憎しみや怒りは感じきる。

憎むではなく、憎しみを感じきる。

怒るのではなく、怒りを感じきる。

憎むというのは対象が相手になっています。

怒るも同じです。

焦点が相手になっています。

憎しみを感じるというのは自分の中に生じた感情が対象です。

焦点は自分の中になります。

自分ではありません。

自分の中です。

強いネガティブとは同調しない

憎しみや怒りと同調しないのです。

生じた憎しみや怒りは自分ではありません。

自分の要素の一つです。

同調はしない。

簡単ではないと思います。

相手を憎みそうになる。

相手を憎んでしまう。

かまいません。

戻って来れば良いのです。

相手を憎んでしまった…

と憎しみに同調したことに気づいたら

私の中に憎しみが生じている。

と分離すれば良いのです。

根気強く続けます。

これは非常に尊いことです。

無知な人間ではなしえません。

無知な人間は生じた感情を己と認識します。

だから

怒りにまかせて

憎しみにまかせて行動してしまうのです。

もし

過去にそのようなことをしていたとしたら

その責任はいつか負います。

それは仕方のないことです。

反省をしたら

これ以上、同じことを繰り返さないことです。

嘆くだけでは越えられない試練です。

ですが乗り越える価値のある試練です。

今世でもし、笑えなかったとしても来世で笑えます。

報われない努力などないというのはこういうワケです。

自分のしたことの責任は自分で負う。

自分の蒔いた種は自分で刈り取る。

良い種も悪い種もです。

今世での努力、良い種が実らなくても来世で実ります。

本当は今世の努力は今世で実って欲しいですけどね。

そうなると死ぬ間際の努力や悪事の種を刈り取れなくなりますね。

だからですか…。

うーーーーん、

やはり神様は偉大なのである。

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